2009年07月19日(日)

フットサルチームができた

40年も前になるが、家族の犠牲や協力を得て兄弟でこじんまりとした資本で会社を立ち上げた頃弟は海焼けした髪のサーファーであった、トヨタのパプリカという空冷2気筒のトラックの荷台にいつもサーフボートを隠し持ち波が良ければ兄貴の目を盗み湘南の海で波乗りをしていた。
ユーミンの唄と共に流行したスキーブームの頃には社員も増え一同でキャラバンを組んで車山、エコバレー、神立へと強行日程のスキーやスノーボートを楽しみ、オフにはテニス、ウインドサーフィン、ダイビング、舟釣り等この頃には社内に野球のチームもでき背番号には、檜とか杉、桐等木材の名前をつけ私の背番号は棟梁であった、個人プレーや会社ぐるみで余暇を楽しみつつ会社も順調に伸び資本金も10倍に増え、税金を払える無借金企業へと成長できたのはNHK歴史ドラマ天地人の様な義と愛(兄弟愛、隣人愛)を知らず知らずの長い間続けられたからだと思います。
何事にも全員で取り組んできた会社、7月に入り今度はフットサルチームが社内にでき職人、社員が集り20人にて夜間の時間を楽しみながらコミニケーションが深めた、打ち上げには全員でスーパー銭湯にて今度は裸のつきあいへと移行していったのであった。
職人はゴールドフィンガー、繊細な指を持ち伝統的匠の技を駆使した仕事をしてくれるのである。
指先を突き指でもされては一大事と今日はネットにてゴールキーパー用のプロテクター入りのグローブを2組購入してしまった。
今は真夜中の24時、寒川神社から浜降り祭典の神輿が出る花火の合図が夜空に轟き渡った。
明日は早朝から神輿の去った浜辺のゴミ拾いに行かねばと思っている、このボランテェアは一昔も前から社員有志と行っている会社の事業である。
どうやら外が賑やかな雰囲気になってきたようだが明日の海岸清掃のため休むことにしよう。

2009年07月18日(土)

3丁目の夕日の自転車店が全焼

一昨年暮れ餃子店からの延焼で3丁目の伝統的な自転車店が全焼したが、めでたく本日復原となった
消防署の見解は全焼であったが映画3丁目の夕日の自転車店のイメージを持った味のある店の
被災者の娘さんが年老いた老夫婦に代わり新築の相談に訪れたが借地上の建物であること、高齢者の長期仮住まいから及ぼす各種のストレスを考慮し、又昭和初期の伝統的な建物を残す重要性を重んじた結果から延焼で屋根の焼け落ちた木造の住宅を解体せずに復原することを私は提案した。
先ずは焼け残った家財を焼却所に搬入、次に柱を残し屋根壁等を撤去、木材の焼け焦げた表面を削ぎ取ったり、交換したり、布基礎を内側から鉄筋入りコンクリート基礎で覆い耐震性を新築並みレベルに引き上げたりした後に焦げ臭い臭気を撤去、内部造作をし屋根、外壁を張り直し、サッシを入れ替えて無垢の木材や珪藻土を多用して、今時の新築並住宅に生まれ変わらせる事に成功したのである。
一時は延焼のショックで入院までした年老いた主も颯爽と自転車の修理に復帰し心配されたストレスからの各種障害も解消し喜んでもらえた記念日となった。
復原工事の総費用は建物が40坪と大きかったが新築の半額程度で3丁目に歴史的資産を残すことができた。
焼け焦げのすすで鼻の中まで真っ黒になりながら復原工事を進めてくれた大工衆には頭が下がり心からの感謝感謝であります。

2009年07月18日(土)

ライオンズクラブと献血・献眼・献腎 奉仕活動

青年会議所(JC)は40歳で卒業しなければならない、麻生さんは卒業後政治家の道へ、棟梁の私は卒業後ライオンズクラブ国際協会330B地区に所属し余暇は奉仕活動に従事現在に至っている。
身近な活動は・献血・献眼・献腎登録・青少年育成(麻薬等の誘惑から守る啓蒙・青少年サッカー大会・青少年野球大会後援等)小さな事を継続した奉仕活動なのである、継続”は力だ
中でも献血活動はクラブをあげて日本赤十字の献血事業に協力多くの実績を上げています。
私ごとになるが、クラブ入会後から・年齢70歳、献血回数70回を目標に活動に参加、この夏めでたく目標を達成できた、私にとっての70歳、献血回数70回は人生の大事業であり、その達成は我ながら大したものであると自負しているのです。
血液は人工的にはできないので絶えず善良な献血者の奉仕に頼らなければなりません、健康な男女16歳~64歳まで、献血継続者は70歳までが1年に3回(男)2回(女)1回あたり400CCの血液を提供できるリミットなのです。
私は70歳のリミットを迎えつつあるから、若い人たちが私の後を継いでくれることを願っています。
検眼登録とは角膜提供者から提供された両目の角膜を二人の盲目患者様に移植する活動です。
献血提供者は老若男女のうち積極的に協力をしてくれるのは女性の方々でありいつも女性の皆さんには敬服しているのです。

2009年07月16日(木)

麻生さんの頑張りに脱帽

今書かねばね!マスコミも世間も日本の総理大臣の事を盛んに書き立て往生際がどうのと非難にいとまがないが、私は流石麻生さんはワンマン首相吉田茂の血筋を引いた政治家だなと麻生さんの頑張りに感心しているのである。
阿部さんや福田さんが投げ出し棚ぼた式に手に入った首相の座ではあるが矢継ぎ早に行った各種の行動、その実行力というか強引な制作決行、非難をものともしない居座りにはある種の尊敬にもにた感情を私は持つにいたった。
特に景気の底上げと称し決行した様々な行動は福と出るか蛇と出るか不明ではあるがその自信に満ちた決断には脱帽、建築業界にとっては福もありか。
彼と私は月とすっぽんの青年会議所の顔を合わせたこともないOB同士、私は万年平会員、片や日本JC最高峰の会頭に上り詰めた(祭り上げられた?)ご人格の持ち主ではあるが、視点を変えて考えてみると彼は首相にはなれても会社の社長の器ではなく、むしろ社員として我が弱小企業に勤めていたらどんなポストでどんな成果をもたらしてくれていただろうか!
とにかく有言不実行、風見鶏の多い政治家と違い麻生さんの物事に動じないあのふてぶてしさには感心してしまうのである。
一人ぐらい孤独な麻生さんを認める無責任棟梁がいることを今書かねば機会を失ってしまうと察して
とりとめのない屁理屈を持って棟梁の独り言を再デビューさせるきっかけとしたのである。

2009年03月05日(木)

阪神淡路大震災と高知城

BSAスキークラブと言う平沢プロスキーヤーをリーダーとする高齢者でなければ入会できないスキークラブがあり、当時会員であった私は群馬県の岩倉スキー場でBSAの仲間達とスキーを楽しんでいた。
兵庫県南部地震の情報は夕食後、岩倉リゾートロビーのテレビで初めて知るところとなり、翌日になっても長田町の火災はおさまらず地震規模の大きさ、すさまじさにあらためて思い知らされた。
数日が過ぎテレビで応急危険度判定士を必要としていることを知り、リュックに寝袋とヘルメットを詰め込み仕事は社員に任せ新幹線に飛び乗り震災地神戸を目指した、あいにく大阪より先は新幹線の鉄橋落下等で不通、12時間程かけて神戸にたどり着きかろうじて倒壊を免れた神戸の協会に草鞋を脱ぐことがでjき、翌日には甚大な被害を受けた神戸市役所に応急危険度判定士として登録、噴煙おさまらない被災地へ飛び出していった。
応急危険度判定士の業務は地震発生から倒壊を免れた建物の状況を調べ・赤紙危険・黄紙注意・青紙安全の調査済み証を調査建物に張り付け注意を促し二次災害から人命を守る業務と心得ている。
震度6強の威力はすさまじいものであった、コンクリートのビルが横倒し、又は押しつぶされていた。
鉄もコンクリートも木造も倒壊原因は弱い建物を造った人災に近い建物の被害が目を引いた。
外面をかざり大切な見えない構造材の腐蝕や蟻害等の補修を怠った倒壊・細い通し柱がポッキリと折れてしまった倒壊・重い瓦屋根を支えきれない倒壊・開口部の多い建物の倒壊・隣接建物火災熱による鉄骨建物の変形、倒壊・簡易な擁壁の断裂による倒壊。
被災地には建物の反面教師が多く存在し、現在加賀妻の創る骨太・樹の家のヒントを得たのです。
・折れにくい檜15㎝の通し柱・シロアリが一目置いている大断面国産木材・美しく管理点検しやすい杉の構造材を見せる自然素材の家。
阪神淡路大震災の後、頑丈な建物を創るヒントを求め辿り着いたのが、奇しくもかの有名な、山内一豊の妻が住んだ高知城であった。
高知城天守閣の太くむき出しで黒光りした年代物の国産木材、松・杉・檜・ケヤキの年輪がヒントで、無垢の国産自然素材を表した地震でも倒壊しない加賀妻の家が誕生したのでした。
高知城をヒントに、設計した建物の第1号が加賀妻工務店隣接地にあり、当時はマスコミにも騒がれ、同業者の知るところとなり現在では住宅と言えば自然素材の家、無垢材の家となったのです。
破れ障子の気にならない、経年変化を楽しむ自然素材の家はぬくもりがあり、子供を育て樹と共に暮らし、楽しむ城なのです。

2009年03月02日(月)

阪神淡路大震災と棟梁の愛車・Eー300S

愛車との出会いなど、どうでも良いような事であろうが55歳の時、震災建物応急l危険度判定士として噴煙まっただ中の震災地、神戸市街のがれきの中で出会い一目惚れをして購入、永く同棲している愛車が車検を迎える年となり、改めて初年度登録の車検証を見て思わずため息をつき購入のきっかけとなった大震災当時を思い起こしてしまった。
平成7年(1995年)兵庫県南部地震によって引き起こされた阪神、淡路大震災から14年、私の愛車の年齢も14歳にあとわずか!我が輩もこの夏には70歳を迎える現役55年生の棟梁なのである。
今の車に出会う迄は2~3年周期で新車を乗り継いできたが今回は知らず知らずのうちに14年間も同じ車に乗っていた事になりびっくり、感謝を込めそろそろ楽隠居させてやることにしよう。
愛車と出会った、この兵庫県南部地震は日本の住宅に大きな変化を見せるきっかけとなりその先鞭をつけたのが、奇しくも(株)加賀妻工務店なのである。
地震の恐ろしさ、無知から行う人災のむごさをこの震災から体験し私も、同行の妹尾現社長も多くを学んだことでその後の日本の文化、伝統的木造住宅を代えるリーダーシップを発揮できたのである。

2008年11月18日(火)