2016年05月03日(火)

上野駅の危険な頭上と浅草浅草寺境内の素敵な人?

私なりの熊本地震倒壊原因調査も一息つけ久々に、ニューギニアで戦死した父の眠る浅草の寺へ出向きました、数年前までは新橋で乗り換え地下鉄で浅草へ行ったものだが、最近は東海道線が上野を経由するため上野駅より浅草寺まで徒歩でも短時間に行かれることを知りました。
茅ケ崎より1時間30分ののちには職人達の通う河童橋商店街、父はその付近の通称河童寺に空の白木箱の石ころに変えられ祭られているのです。
奇しくも浅草寺には通称身代わり地蔵が祭られ今日も大勢の人が参拝をしていたのである。
東京駅とは違い上野駅は昔のままのたたずまい、構内をうっかり歩くと頭を梁下にぶつけてしまう程の天井高さであります。
昭和の時代の鴨居の高さ(出入り口の高さ)はせいぜい1730cm現在の出入り口は最低でも2000cmと
なり25cmも高く作られていますが上野駅では頭上までが1800cmそこそこで長身となった人々や外国からの旅行客にはとても危険に感じます。
。浅草寺入口の素敵なパントマイムカップル
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2016年05月01日(日)

2016年4月25日の熊本城天守閣の一部

熊本城は加藤清正公築城により、大阪城、名古屋城と並ぶ日本3名城と言われ非現存のものは1878年の西南戦争で天守閣が焼失(自焼説)1960年に外観復元(コンクリート製)
(西南戦争の戦禍でも残った櫓群は、国指定の重要文化財指定建物は今回の地震で甚大な被害)
現在城址公園より拝観できるのはこの写真のみ苦労して撮影(前面のお堀周辺に亀裂が入り立ち入り禁止)
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2016年04月30日(土)

2016/4,25熊本空港へ

熊本空港の発着便が正常に戻り予定より10日遅れの25日にようやく熊本入りがはたせたのである。
茅ヶ崎始発am4時55分のJR.に乗り6時前には羽田空港へ到着、熊本行きam7時発・そらしど航空でいざ熊本へ、降りたのはam9時頃であった.
当初は長期の滞在計画であったが、宿泊先が決まらない、阪神大震災時には被害があったが倒壊を免れたキリスト教会に、余震修まらない中宿泊することが出来たのだが!
水食料寝袋持参での行動であったが雨天であったため野宿もままならず、同日AN(全日空21時発)最終便のキャンセル席を確保しで、やむなく帰路についた。
余談であるが・そらしど熊本航空便の代金は片道シニア割引きも有り15,000円ほどであったが、帰りのANは割引もなく正常料金が43,000円と代金の大幅な違いには戸惑ってしまった。
ちなみにチャーターしたハイヤー代金は時間当たり4,000円でした。
熊本空港→益城町災害ボランテァセンター(登録)→西原村役場→熊本城→南阿蘇手前→益城町役場熊本空港のルートで帰社。
(被災地の村までの移動はハイヤーで被災地ではリック背負い徒歩での周回)
過去のボランテァ目的は震災建物の応急危険度判定業務であったが、今回の目的は診断士が診断し青、黄、赤紙が張られた建物似ついて周辺の被災者に判定の目的を話し、赤紙が即倒壊建物となるわけではないこと等説明し被災者の心のケアに努めたのでした。
写真は被災地での活動しやすいこと、ヘルメット、危険度判定士の腕章着用で身分を証明することが出来た。
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2016年04月28日(木)

日本列島亀裂と棟梁ブログの目覚め

昨年8月に終戦時ドキュメント映画・日本の一番長い日について触れてから、はからずも誕生日を迎えた同じ8月頃か棟梁は粛々と棟梁ブログは真夏から長い冬眠に入り、熊本地震の激震で一瞬にして目が覚めたのでした。
永年の震災被災地調査の経験から震災博士を自負する棟梁は直ちに熊本入りを決意し熊本空港までの航空券を購入、いざ!熊本へ、ところがである、気象庁発表した熊本地震の本震命名タイミングはその夜に発生した震度7の激震のため余震となり新たに本震と発表されたのでした。
空港は閉鎖され棟梁の出鼻もくじかれてしまったのである。
空港再開までのブランクを埋める為、冬眠中の真夏の長い夢の記憶を想いだして見ることにしよう。
8ヶ月もの間の夢物語はアラビアンナイトの世界のようではないが!奇奇怪怪でもないですが、一夜にして語り尽くせるものではありません。
日本列島がさらなる激震に襲われぬうちにボツリボツリト・千夜一夜物語棟梁編を紐解いてみよう。
今日はここまで、
まずは熊本地震被災地の復興をいのります。

2015年08月11日(火)

・日本の一番ながい日を見て

映画 日本の一番長い日を見たのはこれが2度目である、1度目は記憶にないほど昔に見たようだが玉音放送に至るまでの内容は何変わることなく記憶に残っていた史実が再現されていた。
今まさに戦争の影が見え隠れしてきたが日本の将来を見据え命を懸けて政治に全うしてくれる政治家はいるのであろうか!
終戦から70年遺骨なき父の戦死からも70年、当時私は小学校入学前の6歳であった。

2015年08月10日(月)

パパさんの助っ人宿題お助けマン登場

毎年行っている市内小学校を訪問しての木工教室を、今年は加賀妻工事店作業所において夏休みの宿題助っ人マンとして開催します。
・開催日時は8月29日土曜日 ・開催時間 9時~15時まで ・
 同時開催は マイ箸つくりコーナー開設 ・耐震診断相談コーナー
 費用は無料ですが事前申し込みが必要です。

2015年08月10日(月)

夏季休暇のお知らせと福山雅治コンサート

今年の夏季休暇は8月9日~16日までですが愛社精神の旺盛な社員さんの一部は休暇も取らずにご依頼いただいたクライアント様のお役に立てるよう多忙きわめておりますが、棟梁の私は久々の休暇を取り、娘のつてで手に入れたチケットで日産スタジアムにて開催された福山雅治コンサート行ってまいりました。
7万人収容の会場で2日間にわたっての公演、述べ14万人を動員できる人気にはいささか、ど肝を抜かれてしまったのである。
恥ずかしながらいつものゲスの勘繰り・1人1万円ほどの入場料14万人では如何ほど?などと考えてしまった、果たしてギャラの分け前はどんな取決めであろうか?

2015年07月16日(木)

新国立競技場の計画見直し

新国立競技場のデザインは国際コンクールで審査に2ヶ月もかけて、なぜあのようなデザインを
選んでしまったのであろうか!選考員の思い上がりか!コンプレックスか!キールアーチに一目惚れしてしまい見境なく決定してしまったのであろう

決定に手を上げた選考員の顔が見たい、どの面下げて世間に顔見せできようか、自分たちは先見の目があるからと、このようなデザインを選んだのだと思うが我が国民は恥ずかしい思いです。
日本には日本の風土にとけ込んでいる伝統的な建物があります。
日本を理解している日本のデザイナーの手で新しいデザインを創造、間に合わないとあきらめていないでここは天下の一大事、オリンピック景気で潤っている大手建設業者が協力してオリンピックまでに新国立競技場を完成させて欲しいと願います。
今こそ日本人のそこ力による奇跡を!

2014年12月21日(日)

国宝殿 医王寺と 匠の会創設功労者の通夜

昨夜国宝殿で厳かに通夜が執り行われた、故人は朝日住まいつくり研究グループ協同組合 匠の会創設者の一員であった石黒氏、いつも平常心で私の善き相談相手でもあり理解者でもあった人。
又ニス界でも選手として善き指導者として功績を残され・ウットラケット全盛時代(カワサキラケット・ふたばラケット)製作の一助を担った実業家でもあった方。
お互い匠の会卒業後はOB会にて情報交換など開催その幹事役も快く引き受けてくれ、新丸ビル内のレストラン等で食事会など行ってきたが最近企画がとどこっていたことが気になっていた矢先の訃報でした。
通夜は、国宝山 医王寺、JR南武線南多摩駅から南に150m、川崎街道筋北川高台にあり、現在多摩川三十三観音霊場第二十三番札所および関東九十一薬師霊場第二番札所になっている由緒ある寺院で行われました。
18時からの通夜でしたが17時過ぎには到着18時の開式時には最前列でご焼香をさせていただいた。
祭壇は故人のお人柄のよう、祭壇と左右は純白大輪の菊が備えられ親交のあった方々から届けられた献花は200其程にもおよび、又純白大輪の菊で統一されていました。
あいにくの雨であったが参列者は準備された大型テント2張りには収容できず雨の中、故人を忍ぶ参列者の長蛇の列が続いた。
あまりにも多い参列者を考慮してかご焼香は心を込めた1回でお願いしますとのアナウンスがされた。
通夜は最前列であったため私は雨にも打たれずご焼香を済ませ早々に帰路につくことができました。
今はただ、故人のご冥福をお祈りしています。

2014年12月14日(日)

長野県白馬村地震

地震勃発から1週間 12月1日より倒壊建物の撤去作業が始まると報道にて知り、倒壊原因調査のチャンスを失うことを恐れ、取るものも取らず電車を乗り継ぎ(茅ヶ崎駅→橋本→八王子→松本→白馬駅)6時間ほどで小雪ぱらつ日没のく白馬終着駅にたどり着いた、乗客の一部は乗り換えのため
( 白馬から先は線路崩壊のためか)、JRが準備したタクシーやマイクロバスに案内され、オーストラリアからのスノーボーダー3名他、通学生達10数名が分乗し奥地へと向かっていった。
線路を境にアルプス側(白馬各スキー場)にはホテル民宿が多く幸い被害が少なかったため、線路を挟んだ反対側(農家が多い)の震災被災者の方々がほどなく訪れるスキーヤー宿泊施設を仮の避難所として各被災地区の村が契約し食事代は自己負担?で被災者の宿泊所としているようであった。
ちなみに私が宿泊した白馬ロイヤルホテルにも被災者の方々の姿があった。
翌日早朝より被災地に詳しく、報道関係者を案内していたという地元のタクシーをチャーターし被災地をくまなく周回、倒壊建物に潜り込み倒壊原因の引き金となったであろう部位を探してはデジカメ2台におさめその数は4時間ほどで1000枚弱となり、カメラのバッテリーも限界、前日早朝よりガラ系携帯電話での連絡、仕事関連の緊急相談電話やメール対応しながらの震災地調査は心身も又限界、幸か不幸か会社との連絡に使っていた携帯電話のバッテリーも又限界とこれ以上の滞在は無理と判断、帰路は穂高