2009年08月29日(土)

24時間テレビでひらめいた、新しいチャレンジ

70歳を目標にしたチャレンジ富士登山や献血記録を達成してしまった!
達成後の虚脱感を自分なりに感じ贅沢に悩みぼんやりと24時間テレビを見ていた、
今年のテーマはスタート、
今日最愛の妻とメタポ予防のためプールに入り水泳初級者に混じりバタ足の訓練を受けた。
水泳は得意であり子供の頃から水泳選手になることを夢見ていた程であるから今更水泳教室に入り水泳を習うことには自分のプライドが邪魔をしていたが妻と二人ずれと言うこともあり我慢して基本であるバタ足や息継ぎのテクニックを学び直し目から鱗が落ちた思いを体験した。
海の男と自負する私が荒海で覚えた体力勝負の我流ではない、プールで泳ぐ競泳の基本には無駄がないことに今テレビを見ながら気がついた、そしてひらめいた、あらたなるチャレンジは24時間テレビのテーマ(あらたなるスタート)にひらめいた、70歳からの再チャレンジの一つとして、水泳を基本から学び直していつの日か高齢者水泳大会に出場する事にチャレンジをする事に決めた。
私は過日なくなった水泳の古橋選手にあこがれ幼い頃から水泳選手になるために大学に行くことを夢見ていたが経済的理由から進学を諦め棟梁になる道を選んだいきさつを思い出したのである。

2009年08月28日(金)

いつもより多い不在者投票

いつもより格段と人での多い不在者投票であった。
いずれが政権を取ることになるか非常に気になる話であるが投票を終えて初めて味わえる投票結果である。
昨夜二人で夜間の茅ヶ崎市役所へ出向き無事に投票を済ませ後は投票の結果を待つだけ。
なぜか急に睡魔が襲ってきた、過日の富士登山の疲れが出たのであろう?
今日は気負って見たが文章がまとまらない、今日はここまでにしよう、

2009年08月25日(火)

棟梁70歳の目標達成とは

昭和14年8月24日は私の70回目の誕生日である。
掲げた目標は多々有るが私個人のけじめとして遅延許されない目標が二つありその二つを達成した。
一つは30年前40歳で思った献血提供目標、献血提供限界年齢70歳時に70回の献血達成を!
一つは70歳誕生日までに富士山登頂達成を!
献血は健康であり全てのタイミングがあえば4ヶ月ごと最大1年間3回1.200CCまでは可能であり登山計画リミット数日前にぎりぎりで達成できたが、献血直後の富士登山には身体に負担もかかる不安が残り、様々な要件からチャレンジには躊躇してしまったが満を持して決行、現社長妹尾の次男であり、私の5人の孫の最年少者、6年生の疾風少年と誕生日前夜の23日深夜より登頂をはじめ24日正午前二人して頂上に達し私の人生目標の内、限界期限を自らもうけた計画は誕生日当日にめでたくも達成したのである。
登頂の四方山話は筋肉痛のおさまった頃に改めてご披露させて頂くつもりであり、あらたなる目標を追加設定し宣言してしまわねば、達成感の喜びと共に脱力感を味わう事になり兼ねず避けねばと感じています。

2009年08月22日(土)

ラスト献血、70歳一つの仕事をやりとげた、

ついに70歳となってしまう。
献血は64歳までがリミット、永年の経験者は70歳まで献血が可能である。
昔の輸血は売血に頼っていたため、売血者が頻繁に売血をするため血液が薄まり黄色の血液が輸血用に使われることもあったようです。
売血者は鉄粉を飲み血液の比重を上げて採決をさせたとも利いています。
その後貯血制度ができ私の貯血は祖母のために使い祖母の命を繋いだこともありました。
苦労して満州から引き上げてきた私の義理の父は酒乱であり酒が飲みたくて良く売血をしてその金で酒を飲んでいたと亡き母より聞かされていました、そのような生い立ちから私は酒を飲まない棟梁となったのです。
少し本題から離脱、縁あってライオンズクラブに入会して32年のキャリアを持つ私の目標は自分の年齢と同じだけの献血提供をすることでありました。
(現在は売血も貯血制度も廃止され善意の献血だけが輸血に使われています)
私の誕生日が昭和14年8月24日ですから今回の献血が最後の献血となってしまい達成感もあり一抹の寂しさが更に勝り一瞬涙がこみ上げてしまった。
献血は女性で6ヶ月に一回、1年に2回・男性は4ヶ月に1回で1年に3回まで献血可能であり私は32年をかけて70回の献血を達成することができたのでした。
健康であったからできた記録、ご苦労様、自分に。支えてくれた家族に、健康な身体に生んでくれた偉大な母にはありがとうと言おう、お陰で目標達成できました。
私にとっては大きな誇れる実績である。

2009年08月21日(金)

妻と訪ねた直江兼続生誕の地

10年予共にしたメルセデスベンツE320と別れ、ETC搭載の三菱パジェロショウトボデー3800に乗り、割引高速料金一律1000円の恩恵を受け直江兼続生誕の地と言われている湯沢へ向った。
街道には直江兼続生誕の地ののぼり旗が至る処に立てられ誠の場所がどこであるのかは不明であったが、母を亡くした初めての夏休み、新盆の送り火をたき、待つ人のいなくなった家を初めて長期に空け飛び出した弾みで長岡を過ぎ新潟港へ、料金の高いフェリー(往復4万円)を諦め高速船(往復2名で2,5万円)にて佐渡へ、一泊泊まって佐渡金山を拝観し再び新潟港へ、佐渡金山で働かされていた人別帳から外された無宿人が一年間でたったの1日しか外の世界へ出られないと言うような説明を受け今は恵まれている自分と置き換え当時の労働者を忍んだ。
100年間で70トンの金を掘り出し平成になって採算割れから閉山となったことも意外であった。
拉致被害者のジェーキンズさんやその娘さんが社会復帰をし、観光関連の仕事に付かれていたこともご当地へ行って初めて知つたことです。
戻り際中越地震の折ボランテァで耐震調査協力をした、堀之内、小千谷、十日町、六日町の復興後を訪ね地震の爪痕が既に整備されその面影も見られないことに安堵、走行距離1000㎞(ハイオクガソリン120㍑・)を走り抜け帰路についた。
湯沢では踊り子を出筆した川端康成も入浴したと言う公衆温泉に入り疲れをいやした。
高速の割引のためか、新潟以外の車ナンバーが目立ち、CO2の排出量が気になった次第である。

2009年08月20日(木)

ご仏前へのご挨拶

年季奉公の年期が開けしばらくして親方が亡くなった、通夜、葬儀には式生で親方よりもらった印袢纏で参列をし親方を見送った。
奉公中お世話になりかわいがって頂いた親方の奥様をお母さん親方をお父さんと呼び現在でもそのようにご夫妻を呼び師弟の関係を超えたおつきあいが続き、お盆の14日には杉並の恩師宅へ妻と訪問、ご仏壇へのご挨拶を済ませた。
50年前私も手伝い建てた恩師宅が現在の常識では倒壊の恐れのある建物に属する建築工法で建てられていたことを今回の訪問で気がついたが、私一人で造った家と思い込み、のりちゃんの建てた家だから地震にも安心だと信じ切っている母にこの家は耐震補強が必要だとはいえなかった。
高齢で人工透析を繰り返している母の存命中に私の手で耐震補強ができれば良いのだが!

2009年08月15日(土)

地獄の釜のふたが開く

地獄の釜のふたが開く、こんなことを体験していたり理解する人も少なくなって来ました。
私は東京都杉並区上高井戸の甲州街道の道筋にあった新川工務店という大工の棟梁の家に大工の見習丁稚小僧として住み込んだのは15歳の頃であった。
東京でも珍しい大雪が降った4月の初旬、私の祖父も大工さんであったが、おばあちゃんの配慮で甘えの許されない見ず知らずの他人様の元で修行をする事を諭され、15歳の私の意志で大工訓練校の紹介先を選び祖母に連れられて尋ね、その日から20歳までを大工修行の年期期間と定められ住み込んだのです。
今も大切に保管している、ニュウギニアで戦死した父の形見、厚紙でつられたトランクに下着をいれて母が涙ながらに持たせてくれた古いトランクが旅達時のたった一つの財産であった。
・地獄の釜のふたが開くのは年に2回、お盆の時とお正月のそれぞれ3日ほどが年季奉公をしている者達が暇をもらい、ふる里に帰ることが許される唯一の楽しみであった。
5年の修行を終え1年間のお礼奉公(1人前に育ててくれたお礼に無給でさらに1年間働くこと)を済ませ、晴れて1人前の職人と認められることができたのである。
高校へ行くことが夢であったが貧乏家庭がゆえに選んだ口減らし、年季奉公の年期が開け少しは手元にあるお金で新宿にある工学院大学附属高校の夜間部の入学金を納め夜間高校生になれたのは21才の4月です。
念願な高校通学も無理がたたり骸骨のような身体になり3年で挫折、ふる里に戻り体調を整え東京オリンピックの翌年に再起をかけふる里を離れ武者修行、周囲の善意の皆様に支えられ今日に至っています、最後に草鞋を脱いだのが茅ヶ崎である。

2009年08月10日(月)

無き母の願い?踏みとどまった富士登山延期で命拾い!

今日は1日夜明けのガス灯のごとくであつた、原因は!
ネットや登山の書物で準備を重ねいざ鎌倉の直前、念のため調べた天気予報で登山は凶と出てしまった為である。
過去の登山において母とチャレンジした夜間登山を思い出し決行を思いとどまったのであった。
15年ほど前になる奇しくも今回と同じ8月9日、夜間取引先のボーリング大会に参加しその後、PM9時頃から星空の元に出発した登山であったが11時頃から豪雨となってしまった。
せいぜい6合目付近であったと思うが、ははの身を思い下山を進めたが母は、私は死んでも上るよとさらに上の7合目を目指すことになってしまった、当時母は70歳は過ぎていた筈であるが元気でした。
富士登山の雨は下から吹き上がり当時の雨具ではとてもしのげることはできなかったがずぶ濡れのままさらに8合目へ、時間は既にAMへ、雨宿りのため山小屋で待機天候の回復を待ったが、残念なことに登山禁止のパリケードが登山道に立ちはだかり夜明けをまって豪雨の須走を走り降りた、すぐ脇を鉄砲水が滝のように音を立てて流れていたのを目のあたりにして恐ろしい記憶がよみがえった。
不思議なことに下山途中からは快晴であったので救われた思いで、ほっとしたのが懐かしい。
思い出の夜間豪雨登山と同じ9日私は70歳を迎えつつあるがとても母の気骨には勝てないと思うが一つのけじめとしてこの登山は成功させねばと準備を済ませたが、あのときと同じ豪雨登山の直前に登山断念できたのは今年93歳で大往生を果たした偉大な母の忠告であったような気がする。
この忠告が無ければたぶん今回の登山はかなり危険な夜間登山となり生命の危機もあったかも知れぬ無謀な登山をしていたのかも知れません。
夜明けのガス灯のにお袋さんの愛情を感じた一日であった。

2009年08月09日(日)

富士山登山を延期した

本日富士登山決行の日であったが台風等の影響を考慮し延期迷い無く決断した。
背景にはここのところ頻繁に発生する夏山での不幸な遭難事故があり準備万端整えていただけに残念ではあるが次回の登頂計画は8月の23日(日)~24日を予定しています。

2009年08月09日(日)

加賀妻の技量が問われる講演会が始まった

先ずはご聴講頂いたユーザーの皆様には加賀妻に興味をお持ちいただき誠の感謝の意を証したい。
講演会のPR広報期間が短く参加者がさぞ少なかろうと、その他の一同になりすまし講演会をバックアップするつもりで商工会議所会議室に参じたが、ありがたいことにとても盛況でした。
ご参加の皆様誠にありがとうございました。
皆様のご信頼に応えられるよう、棟梁加賀妻のポリシー(己に妥協せず妥協を求めず)の精神を貫くよう更なる精進を社員の皆さんには求めて行かねばとその責を感じています。
次回の講演会にも是非ご参加頂きたいと願います。